このウェブサイトはご利用の端末での閲覧に対応していません。
This website does not support your device.

菅原道真

May 26th, 2020
“天神様”として信仰される菅原道真は平安時代の貴族です。優れた学者だったとともに天皇に重用されて異例の出世で右大臣にまで登り詰めましたが冤罪によって大宰府へ左遷されて現地で没しました。その後京都では凶事が続いたため、“道真の祟り”として結び付けられるようになり、神として祀られるようになりました。
史料によって解釈が異なる場合があります。
史料によって解釈が異なる場合があります。

基本の情報

菅原道真

菅原道真は天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)の神号で祀られ、“天神様”として信仰されている平安時代の貴族です。菅原道真は優れた学者だったとともに宇多天皇に重用されてその治世を支え、異例の出世で右大臣にまで登り詰めました。しかし、冤罪によって大宰府へ左遷され、間もなく現地で没し、その後京都では凶事が続いたため、“道真の祟り”として結び付けられるようになったため神として祀られるようになりました。

名前
菅原道真(すがわらのみちざね)
別名
菅公(かんこう)
菅家(かんけ)
神号
天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)
性別
男神

神様として祀られるまで

前半生

菅原道真は平安時代の承和12年(845年)6月25日に生まれました。

菅原家は天穂日命に起源をもつとされ、学問をもって朝廷に仕える家系でした。代々の当主は菅家廊下(かんけろうか)として知られる私塾を主宰し、優れた学者を多く輩出しました。

菅原道真も幼少期から学問に秀でており、5歳で和歌を、11歳で漢詩を詠むなど神童と称される優れた才能の持ち主でした。学問に励んだ道真は貞観4年(862年)に律令制における中央官庁の官吏養成機関である大学寮で詩文や歴史を学ぶ学生の文章生の試験に18歳の若さで合格しました。

5年後には文章生のうち2名だけが選ばれる文章得業生になったのち、少内記や存問渤海客使、民部少輔、式部少輔などを務め、元慶元年(877年)に33歳で学者の最高位である文章博士に就きました。また、37歳の時に父菅原是善が亡くなると菅家廊下を主宰するようになり、朝廷における文人社会の中心的な存在になっていきました。

仁和2年(886年)に讃岐守(讃岐国司)を任じられた道真はこれが左遷であると嘆きましたが、精力的に職務に励んだと言われます。この間に光孝天皇が崩御して宇多天皇が即位しましたが、左大弁橘広相に銘じて出した詔勅をきっかけに太政大臣藤原基経が政務を放棄する事件(阿衡事件)が起きます。この事件は道真がこれ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない旨の書を送り、基経が怒りを収めたことによって事件は終息しました。

右大臣

4年後の寛平2年(890年)に任期が終わって帰京した道真はその年に病没した橘広相に代わり宇多天皇の側近とした抜擢され、翌年天皇近臣中の近臣ともいえる職である蔵人頭に任命されました。なお、宇多天皇が道真を重用したのは藤原基経が病没したのを契機として天皇が藤原氏の傀儡であると言われるほど強大になった藤原氏の権力を弱めるためだったされます。

その後道真は参議兼式部大輔など務め、寛平6年(894年)には56年ぶりの遣唐使派遣のために遣唐大使に任じられますがこの時道真は唐の国情不安を理由に遣唐使の停止を提案しました。この後も道真はしばらく遣唐大使の職にあり続けますが、のちに唐が滅亡するまで遣唐使は再開されませんでした。寛平9年(897年)6月に権大納言兼右近衛大将に任じられ、左大臣と右大臣が相次いで没して不在となっていたため、大納言兼左近衛大将となった基経の嫡子藤原時平とともにこの時の太政官の最高位に就きます。宇多天皇は突如醍醐天皇に譲位しましたが、引き続き道真を重用するよう求め、昌泰2年(899年)右大臣に昇進しました。この時藤原時平も左大臣に昇進します。

左遷と死

道真の右大臣への昇進は家格からして異例の出世であったため貴族の中には快く思わないものが多く、藤原時平を中心に道真を排斥する動きが起きました。昌泰4年(901)に道真は従二位に叙せられますが、まもなく時平の「宇多上皇が道真の娘婿でもある斉世親王を醍醐天皇に代わり即位させようとしている」という讒言により醍醐天皇は道真を大宰員外帥に任じ、筑前国大宰府へ左遷しました(昌泰の変)。

大宰権帥は本来は九州地域の兵権を掌握する大宰府の実質的長官で九州地方の支配権を持つポストですが、中央で失脚した者の左遷ポストとしての大宰権帥は大宰員外帥として区別される名ばかりの閑職でした。

家族とも十分な別れも許されないまま京都を離れることになった道真は大宰府への自費での移動を強いられ、大宰府でも俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられ、衣食もままならない幽閉同然の生活を送りました。2年後の延喜3年(903年)に菅原道真は59歳で亡くなり、現在の太宰府天満宮となる安楽寺に葬られ、「天満大自在天神」と号しました。

“道真の祟り”

その後京都では疫病が流行り、延喜9年(909年)には藤原時平が病死したのをはじめ、陰謀を首謀したとされる者の死が相次いだため“道真の祟り”によるものと噂されるようになりました。延喜19年(919年)、怨霊を鎮めるべく醍醐天皇の勅命により時平の弟である藤原仲平が自ら大宰府に赴いて立派な社殿を大宰府の墓所の上に造営します。

猛威を振るう怨霊は依然として鎮まらず、大火や干ばつ、洪水、延喜23年(923年)には保明親王が亡くなり、狼狽した朝廷は道真の官位を右大臣に復し、正二位の位階を追贈、元号も延長と改元しました。しかし代わりに皇太子になった慶頼王も亡くなり、ついに延長8年(930年)には醍醐天皇臨席のもと貴族が居ならぶ内裏の清涼殿に落雷し、死傷者が出る清涼殿落雷事件が起きます。惨状を目の当たりにした醍醐天皇はこの事件をきっかけに病気がちになり、3カ月後には崩御します。天暦元年(947年)には怨霊を鎮めるために京都の北野に社殿が造営されました。

その後も災厄が起こるたびに怨霊によるものと恐れられたため、一条天皇の時代になると永延元年(987年)に北野の社に勅使が派遣され「北野天満宮天神」の勅号が贈られました。大宰府の社も安楽寺天満宮と称すようになりますが、“宮”の社号は本来天皇や皇族を祀る神社に使用されるものであり、怨霊への恐れが見てとれます。正暦4年(993年)には生前の右大臣の官位を越える左大臣、ついで太政大臣の官位を贈ったほか、寛弘元年(1004年)には一条天皇自ら北野天満宮に行幸するととも、太宰府へも勅使を遣わせています。

天神信仰

時がたち平安時代の終わりになると徐々に怨霊信仰も薄れていき、道真への信仰は様々な形で各地へ広がっていきました。

清涼殿落雷事件から道真の怨霊は雷神と結び付けられ、その怒りが雷の形で現れると信じられました。これは京都の貴族は恐怖と畏怖の念でとらえていましたが、その一方で農民には農耕に必要な雨をもたらす豊穣の神として崇められるようになります。

災害の記憶が薄れていくと和歌が得意であったことから和歌の神、そこから派生して連歌が流行ると連歌の神として信じられるようになります。室町時代には北野天満宮に連歌会所が置かれて連歌の中心地となり、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国は北野天満宮に定舞台を張りました。のちにさらに派生して文芸や芸能の神として広く信仰されるようになります。

江戸時代までには道真が学問に秀でていたことから寺子屋で分霊が祀られるようになりました。寺子屋が広がって庶民にも学問が身近になったことで学問の神として現代まで厚く崇敬されるようになりました。

史料によって解釈が異なる場合があります。
史料によって解釈が異なる場合があります。
一番上へ
トップにもどる
シェアする
シェアする
Facebookでシェアする
ツイート
Google+でシェア
Pocket
はてなブックマーク