由緒
創建は神亀元年(724年)と伝えられます。文献での初出は『万葉集』で、神亀5年(728年)に大宰帥大伴旅人などが詠んだ和歌に香椎廟についての言及があります。
仲哀天皇8年(199年)、仲哀天皇は熊襲征伐のための西征で筑紫へ至り、行宮の橿日宮を建てました。仲哀天皇は熊襲を攻めましたが敗走し、翌年この地で崩御します。これは「熊襲の痩せた地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」との神託(住吉大神の御神託)に背いたためであるとされます。仲哀天皇とともにこの地へ来ていた神功皇后はその後海を渡って新羅を平定(三韓征伐)し、凱旋した後にこの地に仲哀天皇を祀るために祠を建てました。この祠が香椎宮の起源であるとされています。
その後養老7年(723年)に神功皇后自身の神託によって神功皇后を祀る宮の造営が始まり、翌年神亀元年(724年)に仲哀天皇の宮と合わせて香椎廟としたことで創建されます。“廟”という呼称の通り、創建から平安時代になる10世紀ごろまでは現在のような神社ではなく、霊廟として扱われていました。このため、延喜式神名帳には記載されていませんが、神宮司の代わりに廟司が置かれ、即位や天災、外寇の際に朝廷から奉幣を受けるなど特別な待遇を受けました。10世紀後半ごろになると大宮司が置かれ、神社として扱われるようになりました。
戦国時代の天正14年(1586年)には背後の立花山に豊後大友氏が築城した立花山城が島津氏の侵攻を受け、香椎宮も焼失しました。また、豊臣秀吉が九州を平定すると社領が没収されて衰退しました。
後に立花山城に入城して筑前国領主となった小早川隆景によって再建され、江戸時代になっても福岡藩主黒田氏の崇敬を受けます。社殿は寛永14年(1637年)に再び焼失してしまいますが、寛永21年(1644年)に2代藩主黒田忠之によって再建され、享和元年(1801年)に10代藩主黒田斉清によって改築されています。現在も残る香椎造りの本殿は黒田斉清によって建てられたものです。
明治に入ると正式に社号が香椎宮となり、10年に一度天皇により勅使が遣わされて勅祭が斎行される勅祭社にも定められました。
祭神
主祭神
香椎宮の主祭神は仲哀天皇と神功皇后です。
仲哀天皇は日本武尊の第2子で第14代天皇です。即位8年に熊襲を討つために神功皇后とともに筑紫の橿日宮に至りました。この時、神憑りした皇后から「熊襲の痩せた地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」との神託を受けるもこれを無視して敗走し、橿日の地で崩御しました。
神功皇后は仲哀天皇の遺志を継いで熊襲征伐を達成、続いて海を越えて新羅へ攻め込み三韓征伐も達成しました。また、神功皇后は仲哀天皇の遺児を身ごもったまま三韓征伐へ向かっていて、帰還した後に筑紫で誉田別尊、のちの応神天皇を産みました。
配祀神
香椎宮は配祀神として応神天皇と住吉大神を祀っています。
応神天皇は仲哀天皇の皇子で第15代天皇で、八幡神として信仰されています。
住吉大神は海と禊祓の神様として信仰され、神功皇后が三韓征伐へ海を渡った際に守護し、導きました。
摂末社
境内社
境内に以下の2社の摂社があります。
- 武内神社
- 祭神:武内宿袮命
- 仲哀天皇と神功皇后に仕えた五大臣の筆頭、武内宿祢命を祀る摂社。
- 巻尾神社
- 祭神:中臣烏賊津命
- 仲哀天皇と神功皇后に仕えた五大臣の一人、中臣烏賊津命を祀る摂社。
境内に以下の5社の末社があります。
- 稲荷神社
- 祭神:保食大神
- 鶏石神社
- 祭神:不詳
- 朽瀬神社
- 祭神:羽田矢代宿祢
- 早辻神社
- 祭神:大伴武以
- 辨財天社
- 祭神:市杵嶋姫命
境外社
また、近隣に以下の境外社があります。
- 平野神社
- 祭神:大鷦鷯天皇
- 所在地:福岡市東区香椎4丁目3
- 印鑰神社
- 祭神:蘇我石川宿祢
- 所在地:福岡市東区香椎3丁目24-25
- 高倍神社
- 祭神:大膳紀宿禰氏連命
- 所在地:福岡市東区香椎3丁目6
- 濱男神社
- 祭神:不詳
- 所在地:福岡市東区香椎駅前1丁目4-4
- 沖合にある御島神社を遥拝した場所と伝えれられる。
- 御島神社
- 祭神:綿津見神
- 所在地:福岡市東区香椎浜3丁目