

由緒
倭国と大陸との間の交易が活発になった4世紀ごろ、九州本土から約60kmに浮かび大陸との交通の要衝である沖ノ島で航海の安全や交流の成就を祈る大規模な祭祀が行われるようになっていたとみられます。この時は社殿がない露天での祭祀で、7世紀ごろには同様の祭祀が現在の御嶽神社があり玄界灘を見下ろす御嶽山の山頂、それに現在の宗像大社辺津宮のある九州本土の田島でも行われるようになります。
8世紀前半に成立した日本最古の歴史書である“古事記”や“日本書紀”には豪族の宗像氏が沖津宮、中津宮、辺津宮の三宮で宗像三女神を祀っていると記されています。16世紀ごろまでには御嶽山の麓に社殿が造営されて現在の中津宮となり、山頂にある御嶽神社は中津宮の奥宮となりました。
現在でも御嶽神社の周辺には7世紀から9世紀ごろに行われた古代祭祀場の跡である大島御嶽山遺跡が残されています。
中津宮について詳しくはこちら。
宗像大社 中津宮|fukuoka|in kyushu|jinja data|learning 'jinja'
祭神
御嶽神社の祭神は天照大神と湍津姫神荒魂の二柱です。
天照大神は太陽の女神とされ、伊勢神宮内宮の祭神として知られます。高天原を統べる主宰神で皇祖神とされています。
湍津姫神は宗像三女神のうちの一柱で、天照大神と素戔嗚尊の誓約の時に天照大神が素戔嗚尊の十握劒を噛み砕き、吹き出した息の霧から生まれました。宗像三女神は天照大神から授かった神勅のもと宗像の地に降臨しました。
神霊には優しく穏和な一面である和魂と荒々しく猛々しい一面である荒魂の二つの側面があります。普段は一つに祀られますが、時に単独で一神格として祀られることがあり、御嶽神社には湍津姫神の荒魂が祀られています。
天照大神について詳しくはこちら。
天照大御神|kami-sama|learning 'jinja'
湍津姫神について詳しくはこちら。
多岐都比売命|kami-sama|learning 'jinja'